王仁三郎は機関誌神の国に対してこのような遺言を遺している。
●錦の土産 一、大正日日新聞は如何なる理由出来する共 廃刊すべからず 一、北国夕刊新聞も又同じ 一、神の国は永遠発行すべし 一、天声社は決して担保に入るべからず 一、吾著述は 旧稿新稿を問はず不残出版す可し 一、上野公園氏との提携は飽くまで継続す可し 一、中外日報との関係を益々濃厚なるべく務む可し 大正十三年正月五日 王仁
ここに、はっきりと神の国の記述がある。神の国は永遠に発行すべし、だ。これは王仁三郎の機関誌に対する想いが込められている。それにしても、永遠の二字は重い。それだけ機関誌の重要性を王仁三郎は考慮していたことが分る。思えば機関誌は信徒やそれを読む人々の意識を共有化する媒体だった。この機関誌があるから会の活動や人々の動き、想いが購読している人々に伝わるのであって、それは団結の要を成すものではないだろうか。
だから、王仁三郎は永遠に発行すべしと定義した。
その神の国を運営するというのは、かなりの責任が生じることになる。神の国は雑誌ではないから、内容は愛善が伴ったものでなければならないし、単に会の出来事のみを会員たちに報告をするだけのものなら神の国に存在意義はない。
現在、神の国は愛善苑が発行しているが、いつものことだが、イベントにしても、特集にしても、感想文にしても、論文にしてもほとんどなく、内容がペラペラなのは残念な限りだ。ネタ切れなのは分るがひも解いていて寂寥感すら覚える。しかし、そうはいっても、根本的に書き手がいないというのはどうにもならないことだ。
永遠に発行すべしと王仁三郎が語った神の国とは、寂寥感漂う空虚な機関誌のことではない。愛善が伴い、人々の意識を建設的に共有するべく存在する機関誌の存続を指示したのである。
神の国を発行するのは心がけとしてよいとしても、これを継続することがいかに難しいかが、彼ら愛善苑の書き手不足の状況を見て感じることが出来るだろう。